東北の秋は足が早い。10月上旬、雲が低く垂れ込める空の下、私たちは山形自動車道を西へと走らせていた。
目的は、出羽三山の聖地を巡る旅。今回も、日頃から親交の深い「羽黒山の山伏」の友人と二人連れだ。昨年の大晦日、猛吹雪のなか敢行した雪中参拝に続く、2026年・羽黒山参拝の「第2弾」である。
今回の行程は、友人の「注連寺(ちゅうれんじ)は本堂仏間の天井の抜けが実によくて、気がいいんだ」という一言で即決した。さらに、出羽三山に入る修験者が身につける「注連縄(しめなわ)」を妻のために授かりたかったという目的もある。結界を張り、身を護る神聖な注連縄。自分用のものは以前友人から譲り受けていたが、山に入る者としての礼を尽くし、家族の分も求めたかった。もっとも、長年厳しい修行を重ねて山伏名を授かった友人は、すでに格別の朱色の注連縄を携えている。
月山湖のあたりに差し掛かると、フロントガラスに雨粒がぽつぽつと落ちてきた。その時、ふと何かを感じ取ったのか、助手席の友人がスマートフォンで注連寺の公式情報を調べ始めた。
「……あら…危ね…」
「どうしたの?」
「このお寺、いつの間にか拝観が予約制になってるね…」
「前は違ったよなぁ…」
「あやぁ…」
時刻はすでに午前11時を回っている。午前の受付終了が迫るなか、友人がすぐさま電話をかけてくれたおかげで、滑り込みで拝観の手続きが完了した。山伏の直感、恐るべしである。
深山に息づく即身仏と天界の気――湯殿山注連寺
鶴岡の南東、山懐深くに位置する湯殿山 注連寺。周囲を立ち込める雨霧が包み、本堂の背後にあるはずの月山は厚い雲の向こうに隠れていた。
駐車場には関東ナンバーの車が停まっており、境内には静けさが漂っている。開創から1200年の歴史を持つ寺の本堂は、堂々たる風格を誇りながら、周囲にはしっかりと木組みが施されていた。寒冷な豪雪地帯ゆえの雪囲いだ。まだ半袖で過ごせる初秋の肌感覚とのギャップに、この地を包む冬の厳しさが想起される。

雪囲いの木組みに囲まれた、湯殿山注連寺の本堂
本堂へ足を踏み入れると、先客を案内していた住職が快く出迎えてくれた。友人が山伏であることを告げたためか、住職の解説には熱がこもり、仏教の専門用語を交えた重厚な講話が始まった。
その要旨を紐解くと、この寺が背負ってきた並々ならぬ歴史が浮かび上がってくる。
- 女人救済の遥拝所:弘法大師空海による開創と伝わり、月山・湯殿山が女人禁制であった時代、山に登れない女性たちが湯殿山を拝む遥拝所として、また湯殿山行者の根本道場として栄えたこと。
- 越後宮大工の意匠:かつて火災で焼失したのち、新潟から招かれた宮大工によって再建されたため、越後地方独特の建築工法が用いられていること。最大の特徴は、同じ本堂のなかで、本尊が安置された仏間だけ天井が張られておらず、屋根裏のダイナミックな骨組みがそのまま露わになっている点だ。
- 現代アートと天界の融合:仏間の外の天井を見上げれば、村井石斎をはじめ、複数の画家による天井画が広がる。龍神が天を舞い、白馬や天女が飛び交う。私には、俗界と天界が交差する境目のように見えた。住職は「いろいろな評を言う人もいるが、私はまったく気にしない」と豪快に笑った。友人が「気がいい」と絶賛した理由が、すとんと腹に落ちる。
話が佳境に入ったところで、住職がおもむろに畳の上を指差した。
「実はね、午後から拝観を閉めるのは、このカメムシのせいなんです」
開放された堂内のいたるところにカメムシが発生するため、午後はその対策に充てるのだという。午後閉館の理由がまさかのカメムシとは。私たちが滞在している間にも二組ほど参拝客が訪れては引き返していったが、あの直前の電話一本がなければ、私たちも門前払いを食らうところだった。
さらに住職の口からは、知られざる山岳信仰の深層が語られた。境内にある樹齢約200年の「七五三掛桜(しめかけざくら)」の逸話。過酷な修行の末に即身仏となった高僧・鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)の足跡。東北各地の街道沿い、遠くは北海道にまで数多く残る「湯殿山碑」の多くが、鉄門海上人の足跡と重なること。そして、掘り起こされることなく山中に眠る、無数の名もなき行者たちの即身仏が存在すること。

そして、神仏分離以前の出羽三山信仰において、もっとも中心的な霊場として崇められていたのは湯殿山であったという話だ。「明治以前の古い石碑を見れば、必ず中央に『湯殿山』の名が刻まれていますよ」。
「湯殿山」とだけ刻まれた石碑なら、地元の角田でも、街道沿いや神社の境内でいくつも見てきた。よその土地を走っていても、よく目にする。月山でも羽黒山でもなく、なぜ湯殿山ばかりなのか。前から気になっていたその訳が、住職の話でようやく腹に落ちた。
諸仏に深々と手を合わせ、念願の注連縄を授かって寺を後にした。
車に戻り、走り出す。
「……なぁ、住職の話、どれくらい分かった?」
「俺、半分くらいしかわかんなかったね」
「いやぁ…結構俺も」
顔を見合わせ、思わず吹き出した。
だが、その土地に根づく信仰の重みと体温は、理屈を超えて確かに身体へと染み込んできていた。
羽黒山の洗礼――蕎麦屋の看板猫と神橋・須賀の滝
山深い注連寺を下り、国道112号線を走って里山と田園風景に視界が開けたころには、雨はからりと上がっていた。羽黒山に向かい、大鳥居をくぐる。雪のない羽黒山を訪れるのは、およそ1年ぶりだ。
まずは腹ごしらえと、参道前の食堂「お休み処 ZUISINMON」へ暖簾をくぐった。昼過ぎにもかかわらず窓際席は満席。案内されたのは、使い込まれた赤いソファが並ぶ奥の個室だった。
「おおビップ席じゃん、ラッキーだね」
と笑っていると、店員さんが申し訳なさそうに声をかけてくる。
「あのお~、猫ちゃん外に出ちゃうんでこの部屋にいさせてもらっていいですか?」
見れば部屋の隅に猫用ベッドがあり、愛らしい看板猫が寛いでいる。大の猫好きである友人は破顔一笑。
「面白いねぇ、急に猫カフェじゃん」と大喜びだ。

注文した「ざるそば大盛り」と季節のごはん「栗ご飯」が運ばれてきた。「うちのそばは注文貰ってから茹でるんで時間かかるんです」と断りがあったものの、待たされた感覚はほとんどない。手繰り上げた蕎麦は、十割とは思えないほどにしなやかな弾力とのど越しを持ち、つゆの風味とよく合う。二人して「うまい、うまい」と言いながら、ほくほくとした初物の栗ご飯とともにあっという間に平らげてしまった。

身支度を整え、注連縄を肩にかけ、羽黒山の金剛杖を握る。参道入口の随神門前は、老人会や同級会なのか記念撮影をするグループや多くの外国人でごった返していた。大晦日の夜、猛吹雪のなかで断念した随神門からの参道歩き。現世の幸せを祈る山・羽黒山への入山にあたり、ご挨拶と道中の無事を祈って深々と頭を下げ、門をくぐった。
門を抜けると、石段は登るのではなく、まず「継子坂(ままこざか)」となって谷底へと下っていく。
「混んでいるのは五重塔までだよ」
友人の言葉通り、多くの参拝客で坂は渋滞ぎみだ。木々の合間から冷涼な気が立ち込め、下りきった先で朱塗りの神橋を渡ると、空気が一変した。
目の前に現れるのは、参道最初の禊の場「須賀の滝」。明治の神仏分離前は「不動の滝」と呼ばれていた滝の飛沫が、岩肌を滑り落ちていた。小さな祠に鎮座する瀬織津比売神・天手力雄命にしっかりと手を合わせ、身を清めた。

国宝五重塔から杉並木へ――祈りの石段2,446段
禊の場を過ぎると、樹齢1000年といわれる国の天然記念物「爺杉(じじすぎ)」を横目に過ぎ、そのすぐ奥に「国宝 羽黒山五重塔」がひっそりと姿を現す。東北地方で唯一の国宝五重塔。杉木立に溶け込む素木造りの簡素な建築美には、毎度ほれぼれさせられる。

杉並木の中に立つ、国宝・羽黒山五重塔
五重塔を過ぎると、友人の言葉通り参拝客の多くはここでUターンしていった。山頂の三神合祭殿へと続く全2,446段の本格的な石段へ挑む者はごくわずかとなる。
ここから先は、前も後ろも人気のない、静寂の神域だ。樹齢数百年の杉並木のなかで、一歩登るごとに五感が研ぎ澄まされていく。石段の途中途中には「一の坂」「二の坂」「三の坂」と石碑があり、大体どこまで来たか分かる親切な設計がありがたい。

杉並木の中を山頂へ続く石段
道中には月山方面、鳥海山方面、湯殿山方面を拝む様々な神殿や遥拝所が実によく配されている。急勾配の二の坂を登り詰めると、鶴岡の平野を望む茶屋(二の坂茶屋)が現れる。茶屋の前で少し息を整え、先を急いだ。三の坂へ、大分息を切らしながら、石段を一歩一歩踏みしめて登り切った。
※取材時(2026年10月6日)、参道の七合目あたりの杉の根元にスズメバチの巣があったので、参拝の際はご注意頂きたい。
斎館の門前には、今年の松聖二名の名が掲げられていた。「松聖 先途 鈴木昭夫」「松聖 位上 小関大揮」。二人はすでに、大晦日まで続く百日の行「冬の峰」に入っている。

斎館の門前に立つ、今年の松聖の柱

「松聖 先途 鈴木昭夫」「松聖 位上 小関大揮」の名札
午歳御縁年の山頂、そして開祖・蜂子皇子の静寂
石段を登り切り、最後の鳥居をくぐれば出羽三山神社本殿(三神合祭殿)の横顔が見えてくる。月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭する山岳信仰の聖地であり、参拝客が絶えない。不思議なことだが、毎度ラッキーなことに参拝と同時に本殿内では正式参拝の方の祝詞が始まる。厳かな祝詞を聞きつつ、感謝を申し上げ参拝した。
2026年は、12年に一度の「羽黒山午歳御縁年(うまどしごえんねん)」にあたる。境内には白馬が描かれた大きな御縁年絵馬が掲げられている。この特別な年にお参りすると、ひときわ大きなご加護とご利益を授かると伝えられている。12年に一度なら12年分、と勝手に数えれば、大晦日の雪の夜とこの秋、二度参拝した私たちは24年分だろうか。有り難い限りである。

白馬が描かれた「午歳御縁年」の大絵馬
そして、ここも忘れてはならないのが、出羽三山の開祖・蜂子皇子(はちこのおうじ)のお墓と神殿(蜂子神社)だ。第32代・崇峻天皇の第三皇子であり、聖徳太子の従兄弟にあたる蜂子皇子。墓前入口には立番小屋があり、宮内庁管轄の陵墓となっている。墓碑などはなく、石の柵で静かに囲われているだけなのだが、入口の前に立つと、どこか空気の違う神聖な雰囲気に包まれる。大晦日の参拝の際にも、まだ誰も足を踏み入れていない新雪をかき分け、このお墓に手を合わせた記憶が胸をよぎる。

蜂子皇子墓の前に立つ宮内庁の高札
境内の数ある社殿に挨拶を済ませ、帰り足へ。
金剛杖に午歳御縁年の焼き印が欲しかったのだが、この日はあいにく休業中で友人は残念がっていた。
下りの石段はずいぶん軽快だ。しかし、段ごとに幅や高さが違うためリズムを崩しやすく、転倒の危険がある。疲労も重なっているので油断は禁物だ。すっかり日も傾き、杉の木立の合間から夕陽が差し込んでいく。
無事に須賀の滝まで下りてきたところで、ふと道端の石碑が目に入った。文字は刻まれているが、当時の私たちには読み方すら見当がつかない。
「これ、なんて読むんだろうね?」
「よく各所で見かけるんだよね~、知らない?」
「何だろうね…」
「ま、いっか」
滝前の苔むした灯籠と、謎の石碑を気にかけながらも後にした。幻想的な杉木立の参道も、継子坂を上り返して終わりだ。夕暮れのなかに佇む随神門が見えてきた。
門をくぐって感謝を込めて深くお辞儀をし、外へ出ると、隣の神社の脇にも、同じ字を刻んだ石碑が立っていた。
「ぁ…ここにも…」

随神門の外、神社の脇に立つ「庚申」の石碑
「帰り、温泉行く?」
「行こう!いいね。汗流しますか」
山伏温泉「ゆぽか」の湯と、寅さんが教えてくれた「庚申」の謎
車に戻り、再び大鳥居をくぐる。西の空には劇的な茜色の夕焼けが広がり始めていた。

帰り道、夕焼けの空の下の大鳥居
友人の案内で向かったのは、鶴岡市羽黒町にある「やまぶし温泉 ゆぽか」。
「山伏のみんなで修行上がりに決まってここに来るんだよね」
館内は地元の常連客で賑わい、広々とした内風呂とサウナが備わっている。少し熱めに設定された露天風呂に肩まで浸かると、2,446段の石段を往復して緊張していた筋肉が、じわりと音を立てるようにほぐれていくのが分かった。「山伏温泉」という名に違わぬ力強さだ。
心も体もフルリセットされるような、本当にいい旅だった。
それから数日後のこと…。
自宅でくつろぎながら、葛飾柴又を舞台にする国民的映画『男はつらいよ』を観ていた。
寅さんの実家である、だんご屋「とらや」の店内が映し出されたワンシーンでのこと。
ふと背景の壁を見ると、帝釈天のポスターが貼られており、そこにあの羽黒山で見かけた文字が躍っていたのだ。しかも、今年の庚申は何月何日と、日程まで記されている。
「あ……! あの時の字だ!」
気になってすぐさま調べてみた。
羽黒山の二か所で見た、あの文字は「庚申(こうしん)」と読むのだという。中国の道教に由来する庚申信仰。人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日ごとに巡る庚申の日の夜、寝ている間に抜け出して天帝に罪を告げ口しに行く。それを防ぐため、その夜は村人たちが集まって眠らずに夜を明かした。江戸時代を中心に日本全国へ広まったこの民間信仰の講(こう)の人々が建てた、庚申塔だったのだ。
「へ~なるほどねぇ…」
「これ、全国にあるんだ…」
「なるほどねぇ…へ~」
感心と感動が同時に訪れ、画面の前で思わず独り言が漏れた。
「ここで繋がるのか…なるほどねぇ」
「勉強になりました」
「感謝、感謝」
羽黒山の参道で首を傾げたあの素朴な石碑の謎が、寅さんの下町の日常と一本の線で繋がり、すっかり腹落ちしてその夜はぐっすりと眠ることができた。
山に入り、身を清め、身体を動かして祈りを捧げ、湯で汗を流す。それは信仰という特別な行為であると同時に、日々の暮らしのなかで心身を「リセット」し、明日へと新しく「更新(庚申)」していくための、脈々と受け継がれてきた知恵なのかもしれない。画面の前で、私はそう思った。
文・写真:東北ROUTE66 取材班 小林
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