南陽に来たら、まずここに挨拶をする。 通り抜ける風の肌触りに、ほんのわずか秋の気配が混ざり始めていた。
町なかで車ごと石の大鳥居をくぐり抜け、北へまっすぐに伸びる参道を進む。 すでに熊野の結界内を走っているその道筋、左手に宮内小学校が見えてくる。 ちょうど下校の時間だったのだろう。赤や水色のランドセルを揺らした子どもたちが、通りをワイワイと駆けていく。前方遥かには、参道の先を区切る鳥居が霞んで見えている。 登下校の子供たちの屈託のない日常のすぐ奥に、深閑とした熊野の森がどっしりと口を開けて控えていた。

大イチョウの下で
車を停め、境内へ足を踏み入れる。 駐車場には参拝客を待つ大型バスが一台、静かにアイドリングの低い唸りを響かせている。 参道入り口に立つと、視界のすべてを塞ぐように大イチョウが天を衝いていた。 源義家の命を受け、鎌倉権五郎景政が戦勝を祈って手植えしたと伝えられる樹だ。片目を射抜かれながらも弓を引いたという武将の伝説を背負いながら、いまは地上から何本もの太い幹をうねらせ、鬱蒼とした青葉で空を覆い尽くしている。根元を囲う木格子の前には、精緻な透かし彫りを施した巨大な青銅の灯籠が立ち、静かに参道を見下ろしていた。

そのすぐ脇には、かつての「いちょう売店」を改装した「icho cafe」がある。軒下にはきれいに割られた薪が天井まで積まれ、エンジ色のオーニングの下、硝子越しに店内の柔らかな灯りが透けて見える。「神社エール」と手書きされた黒板の文字を横目に、いつか寄りたいと思いながら、今回はそのまま参道奥へと進む。
手水舎の水鉢に目を落とすと、澄んだ冷水の中に鮮やかなピンクの蘭と白い菊、そして青紅葉が浮かべられていた。花手水が湛える静かな彩りに手を清め、石段の前へ立つ。

擦り減った石段
石段の両脇には、天を刺すような杉の巨木が鬱蒼と連なっている。 その登り口では、まだ白さの残る、彫りの鋭い石の狛犬が出迎える。 足元を見る。幾重もの草鞋や靴底に踏まれ続け、中央が滑らかに凹み、角が丸く擦り減った石段。この段の窪みひとつひとつに、千二百年にわたってこの山を登った無数の人々の重みが染み込んでいる。段を上がるごとに杉木立の影が濃くなり、木々の間にはいくつもの側社が肩を寄せ合うように鎮座していた。

風鈴の小道
石段を上りきると、視界が開ける。 その縁に、苔をまとった石の狛犬が控えていた。登り口の真新しい一体とは違い、雨風に削られて輪郭が丸くなっている。 その先でまず目を奪われるのは、境内に組まれた大きな木の櫓(やぐら)だった。 参拝者たちが願いを込めて奉納した無数の風鈴が、天井にも、左右の格子にもびっしりと吊り下げられ、鮮やかな「風鈴の小道」を作っている。 赤、青、緑、透明。色とりどりのガラスの短冊が、山から吹き下ろす風を受けて一斉に揺れる。 チリン、カララと、幾重にも重なる涼やかな硬い音の波。 その風鈴の回廊の中で、ひとりの女性が深く頭を垂れ、静かに、じっと手を合わせ続けていた。 その背中を見つめながら、風鈴のトンネルをくぐり抜ける。身体の奥に残っていた世俗の熱が、すっと引いていくような感覚を覚える。


風鈴の小道の向こうに、圧倒的な厚みを持った茅葺き屋根の拝殿がどっしりと佇んでいた。 山形県内最古の茅葺き建築。波打つように葺かれた茅の重み、向拝の梁にびっしりと刻まれた龍や唐獅子の見事な木彫り。その古色を帯びた巨躯の足元を彩るように、黄色や紫の菊の花がこんもりと咲き誇り、参拝者を迎えている。 拝殿前で茅の輪をくぐる。木造の社務所からは温かい白熱灯の光がこぼれ、お守りを求める人々の穏やかな声が響いている。

午後三時をまわっていたが、参拝客の足は絶えない。 境内に点在する社を巡り、どの神様に対してもひとつひとつ丁寧に、熱心に手を合わせる人々の姿がそこかしこにある。 大きな本殿だけでなく、小さく祀られた名もなき神仏にまで同じように頭を下げる。見返りを求めるというよりも、目に見えない尊いものへ自然と敬意を払い、頭を垂れる――この無意識の所作こそが、私たち日本人の原点なのだろう。
拝殿の前に立ち、深く頭を下げる。 欲張りな願いを並べるのではなく、今日ここまで無事に足を運べたことへの挨拶と、土地への感謝を心の中で静かに手渡す。
時を違えて
本殿の裏手の彫刻には、「三羽のうさぎ」が隠し彫りされている。三羽すべてを見つけると願いが叶うと言い伝えられ、これまでの参拝で私も何度か探したことがある。今回は探さずに、そのまま通り過ぎた。
関ヶ原ののち、上杉家は米沢三十万石へと大幅に減封された。その三年後の慶長九年(一六〇四)、極度の財政難のさなかに、家老の直江兼続が大旦那となってこの熊野大社の修復にあたっている。新天地での再起を期し、領民の心の拠り所を立て直すための執念だったのだろう。さらに遡れば、上杉が来る前にこの地を治めていた伊達政宗も、天正十八年(一五九〇)、社の別当寺に仏供田を安堵する書状を遺している。のちに敵対する両家が、時を違えて同じ社を支えたことになる。 戦国の修羅を生きた武将たちが、代わるがわる畏敬し、すがり、祈りを捧げた場所。 さらに、日本人なら誰もが昔話として知っている「鶴の恩返し」――傷ついた鶴が身を削って機を織ったというあの物語の伝承地のひとつも、同じ南陽市の漆山、熊野のすぐ膝元の山あいにある。
町の骨組み
参拝を終え、石段を下りながら、ここへ来るまでに車で走り抜けてきた宮内の町並みを思い返す。 桝形のように直角に折れ曲がる道、神事や織物、酒造りを支えてきたのだろう、網の目のように巡らされた細い水路。 この町は、熊野大社という巨大な信仰の重心がまず山裾にあり、そこから職人や旅籠、人々の熱気が放射状に溢れ出して作られてきたのではないか。ハンドル越しに流れていく町の曲がり角から、私にはそう読み取れた。 「東北の伊勢」と呼ばれてきたこの社を目指して人々が集い、祈り、金を落とし、町の輪郭を押し広げていった。その信仰と経済のうねりが過ぎ去ったいまも、町の骨組みはこの土地で呼吸を続けている。元和九年(一六二三)に描かれた門前町・宮内の町割図が、いまも市の文化財として残されている。
道端の体温
神社をあとにし、参道の出口へと向かう。 大銀杏のすぐ脇、道路端の土手に、ひっそりと小さなお地蔵さんが腰を下ろしていた。 手作りの素朴な頭巾をかぶせてもらい、肩には灰色の布をまとわせてもらっている。胸元にはト音記号のブローチ。足元には参拝者が置いていった硬貨や飴玉がそっと供えられている。 格式高い神社のすぐ足元で、神仏の垣根もなく、通りすがる人々の日常の愛情を一身に受けながら佇むその姿。 熊野の長い歴史を支えてきたのは、名だたる武将の寄進だけでなく、こうした道端の石仏に布を巻く名もなき市井の人々の、あたたかな体温だったに違いない。

手帳にペンを走らせているいま、暦の上ではちょうど中秋の名月を迎えている。 名月の冷たい光が、この分厚い茅葺き屋根とお地蔵さんの丸い肩、そして宮内の古い屋根瓦を等しく照らし出す頃、この町はまた昼とは違う影を落とすのだろう。
測量は、まだ終わらない。
文:東北ROUTE66編集部 小林
【この日の道のり】
この日は白鷹で最上川の鮎を食べ、長井を抜けて、南陽に入った。
関連リンク
・熊野大社「御由緒」
・南陽市の文化財「元和九年町割図」
・夕鶴の里「珍蔵寺について」



この記事へのコメントはありません。