猪苗代湖畔、水面を滑り、時の底をのぞく(第3篇)

バブルの遺構、朝靄のレイクビュー

【俺の温泉同好会 vol.3】

湖で濡れた道具を車に積み込み、私たちは今夜の宿へと向かった。 国道49号線を北へ折れ、磐梯山の山裾に向かって緩やかな坂を登っていく。車窓の両脇には、夏の光を吸って眩しいほどに青々とした田んぼが広がっている。

到着したのは「レイクビュー猪苗代荘」。 素泊まりを基本とする、小規模な宿だ。

玄関を入ると、フロントで年配の女性スタッフが一人、穏やかな笑顔で迎えてくれた。館内に他のスタッフの気配はない。簡単な説明を受けてフロント横の階段を数段上がると、視界が途端にひらけた。

ラウンジの壁一面に設けられた大きな窓。 そこには、さっきまで私たちが漂っていた猪苗代湖の全景が、180度の大パノラマとなって横たわっていた。先ほど通り抜けた青い田んぼのカーペット、その先に広がる湖水、そして遠くの山並み。磐梯山を見上げるのではなく、磐梯山の中腹から湖を見下ろす贅沢。

その瞬間のラウンジには、私たちしかいなかった。静寂のなかで、絶景を独占する。

部屋に入ると、すぐさま「カンパイ!」の発声とともに缶ビールが開けられた。一日中、水の上で童心に返って遊んだ身体に、冷えたアルコールが染み渡る。

ふと室内を見渡すと、作りが妙に豪華であることに気づく。 角には立派な囲炉裏が切られ、天井には細やかな黒竹細工、建具の立て付けもどっしりとしていて狂いがない。総客室数はわずか10室ほど。どこか昭和末期、バブル期の豊かな匂いが漂っているのだ。

一息ついてから、一階の浴場へ向かった。

風呂は源泉かけ流しの炭酸水素塩泉。壁一面にはレンガ風のタイルが貼られ、ここもまた無駄がないほど広々としている。湯船のフチは、長年にわたって蓄積した温泉成分で濃い黄土色に変色していた。

お湯に浸かると、日焼けした肌がほのかにピリリと痛む。だが、やわらかな湯の質感がすぐにそれを包み込んでくれた。

「日立の保養所」という答え

夜、街へ繰り出すために呼んだタクシーの車内で、私は運転手さんにずっと気になっていた疑問をぶつけてみた。

「今日泊まってる宿、昔は何だったんですか?」

「ああ、あれね。昔は日立の保養所だったんですよ」

運転手さんは前を向いたまま、短く答えてくれた。

胸のつかえが、すっと下りた。 日頃から宿や店舗の運営に携わっていると、どうも建物の収支を勝手に計算してしまう嫌な癖が出る。一等地の頑丈なRC構造、贅沢な共用部、かけ流しの天然温泉。これほどのポテンシャルを持つ施設を、たった10室の素泊まり宿としてリーズナブルに回すのは、通常の旅館経営のロジックではなかなか合算がつかない。

だが、「企業の福利厚生(保養所)」として建てられたものだと知れば、すべて合点がいく。

1980年代後半、景気の波に乗った大手企業が、社員とその家族のリフレッシュのために最高のロケーションと惜しみない資材を投じて造り上げた「余白」。当時は全国から日立の社員が押し寄せ、この街も大層賑わったのだという。

時代の変化とともに企業の手を離れ、現在の温泉旅館グループへと引き継がれたことで、かつての贅沢な空間構造だけがそのまま残された。だからこそ、私たちは今、この静けさを享受できている。

予約しておいた街の居酒屋「國康亭」に着く。 地元の常連さんが数組くつろぐ店内で、鮮やかな赤身の馬刺しをはじめ、手作りシュウマイやピザ、そして仕上げに濃厚なソースカツ丼を食らう。ジョッキを傾け、腹を満たし、再びタクシーで静まり返った高台の宿へと戻った。

夜の館内は、どこまでも静かだった。 かつて大勢の社員たちが宴を楽しんだであろう広い食堂や卓球台、暖炉のあるラウンジ。人の気配が引いたあとの空間には、どこか穏やかな寂寥感が漂っている。

部屋に戻り、布団に転がって持ち込んだ本を開いていたが、いつの間にかそのまま深い眠りに落ちていた。

朝靄のあとの時間

翌朝、目が覚めると、窓の外は薄い朝靄に包まれていた。 遠くでカッコウの声が静かに響いている。

朝風呂に入り、体を温めてからラウンジへ上がった。 陽が登るにつれて朝靄がゆっくりと晴れ、眼下に濡れた田んぼの緑と、澄み切った猪苗代湖の青が姿を現した。

窓辺のソファーに深く腰掛け、昨日から読み途中だった小説のページをめくる。 誰に急かされることもなく、時計の針の音すら聞こえないような時間。

「おすすめの観光ルート」を効率よく巡る旅では、決して手に入らないものがある。 そこに立ち、そこに寝転がり、かつて人が残した建物の温もりに身を寄せながら、ただ土地の空気と時間の流れを測り直す。

チェックアウトの時間が近づいていた。 私たちは静かに荷物をまとめ、またこの場所へ戻ってくる日のことを思いながら、部屋を後にした。

文:東北ROUTE66 編集部

(了)

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