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阿武隈の汽水に立ち、銀河の心臓を仰ぐ――貞山運河・木曳堀の記憶と、満ちゆく旧盆の宙

 晩夏の川面に浮かぶ、小さな火

八月二十四日、夜八時。 阿武隈川が太平洋と交わるその突端、宮城県岩沼市の新浜水門の前に立っている。

立秋をとうに過ぎたというのに、夜気はまだ重く、肌にじっとりとまとわりついて離れない。草むらからはひっきりなしにやぶ蚊が這い上がり、腕や首筋にチクリとした痒みを残していく。手で払いのけながら見上げると、南東の空に浮かぶ月は、あと二日で迎える旧暦七月十五日(望月)に向けて、その輪郭を白々と膨らませていた。

耳を澄ますと、川の穏やかな水音の向こう、暗闇に沈む太平洋から「ザザーン……」と低く重い波の音が遠鳴りとなって届いてくる。 かつて司馬遼太郎が『街道をゆく』の旅路で立ち寄り、その風光明媚な広大さに息を呑んだと書き残した阿武隈の河口である。 だが、日中の雄大な抜け感とは裏腹に、夜の帳が下りたこの場所には、まったく別の静かな熱気が沈殿していた。

川岸の暗がりに目を凝らすと、両岸にぽつり、ぽつりと小さな明かりが明滅している。

竿の切っ先につけられたケミカルライトの緑や赤の光。この時期特有の、夜釣りの仕掛けだ。

「こんばんは、釣れてますか?」

足元の草を踏みしめながら声をかけると、仕掛けを点検していた釣り人が汗を拭いながら振り返った。

「いや、私はいま来たばかりなので……これからですね」

隣の釣り人が、川面を見つめたまま嬉しそうに口を挟む。

「先週はね、対岸と、ちょっと上流の橋の下で、竿を出して十分で三本あげたんですよ」

声の弾みから、釣りのワクワクした高揚がそのまま伝わってくる。

穏やかに広がる阿武隈の川面には、同じようにウナギを狙っているのだろう、数艘の小舟が浮かび、船灯がゆらゆらと水面を黄金色に染めている。頭上をときおり、すぐ北にある仙台空港から離発着する飛行機の赤い誘導灯が、満天の星空をゆっくりと切り裂いていく。

シャッターを切る手を止め、ファインダーから目を離す。

川面に落ちる月光の帯と、暗がりに揺れる釣り火。遠くで繰り返される寄せては返す波の音。

静かな夜の奥、コンクリートの護岸が黒ぐろと口を開ける水路の入り口に、ふと意識が引き込まれていく。

日本最長規模の運河群・貞山運河の最南端、「木曳堀(こびきぼり)」の起点である。

泥と綱の重み――伊達の骨組みを曳いた水脈

阿武隈川と松島湾を結ぶ貞山運河は、総延長約四十九キロメートル。江戸初期から明治にかけて、時代ごとの必要に応じて掘られた三つの堀が繋ぎ合わされたものだ。そのもっとも古い歴史を持つのが、足元から名取川(閖上)へと伸びる「木曳堀」である。

慶長六年(一六〇一年)、青葉山に仙台城を築き、巨大な城下町の建設に乗り出した伊達政宗は、莫大な建築資材を必要としていた。 城の大広間、武家屋敷、町人街、そして寺社仏閣。それらを支える良質な杉やヒノキは、阿武隈川の上流域――我が町・角田や丸森、白石、そして福島の梁川や国見といった山深い土地から切り出された。

山から伐採された材木は、ゆったりと水を湛えて流れる阿武隈川をいかだとなって下り、この岩沼の河口へと集まる。 だが、そこから仙台城下へ運ぶには、いま耳に届いているあの荒波の外海を越えるか、ぬかるむ泥炭地を牛馬で運ぶしかなかった。そこで海岸線の内側に穿たれたのが、幅およそ五間(約九メートル)の人工水路「木曳堀」だった。

エンジンなどない時代である。 河口で組まれた巨大な材木のいかだに長い綱を結び、引き手たちは堤防の泥道を歩きながら、肩に縄を食い込ませて力任せに曳いた。海から満ちてくる潮の勢いと穏やかな追い風を読み、呼吸を合わせ、汗と泥にまみれて名取川の閖上まで運んでいったのだ。そこから広瀬川をさかのぼり、材木町へ。いまに伝わる杜の都の骨組みは、すべてこの水路を、名もなき人々の足と肩によって運ばれていった。

しかし、開削の途上にあった慶長十六年(一六一一)、この沿岸を「慶長三陸地震」の大津波が襲う。 数キロ内陸まで飲み込んだ大津波は集落を破壊し、掘り進めていた木曳堀も土砂に埋没した。

当時四十四歳の政宗は、この壊滅的な打撃に膝を屈しなかった。気仙沼や陸前高田の金山から湧き出る黄金を投じ、埋まった水路を平野の排水路・水運路として再設計して大規模な新田開発へと昇華させた。さらに震災のわずか二年後には、石巻で巨大帆船サン・ファン・バウティスタ号を四十五日という異例の速さで建造させ、支倉常長らを太平洋の彼方へと送り出している。

災害の泥海から立ち上がり、世界へ視線を放ちながら大地を彫り直した伊達の執念。 いまウナギ釣りの竿先がかすかに揺れるこの穏やかな水面は、かつて東北の山と海、そして人間の途方もない意志が交差した生々しい現場だった。

銀河の心臓を見上げる――旧盆の月と祖霊の道

やぶ蚊を払い 、もう一度頭上を仰ぎ見る。 じっとりとした空気の向こうで、月は澄み渡り、そのすぐ西側には夏の南天を貫くように濃い天の川の帯が横たわっている。

明日、八月二十五日が過ぎれば、明後日・八月二十六日は「旧暦七月十五日」――旧暦のお盆の中日、満月を迎える。

新暦の八月中旬に巡る慌ただしい盆休みが過ぎ、世間が日常の速度を取り戻した頃、この東北の夜空には静かに「旧盆」がやってくる。 立秋を過ぎて太陽の熱がわずかに傾き、夏と秋のあわいに立つこの時期。古来、東アジアの中元節、ケルトのルーナサ、地中海の初期収穫祭に至るまで、世界中の人々が夏の終わりの満月の夜に「異界の扉が開き、祖霊が帰る」と信じて祈りを捧げてきた。文化も宗教も異なる民族が、見上げる月の満ち欠けと大地の端境期に、まったく同じ畏敬を抱いたのだ。

天文学的に見れば、この旧盆の月のすぐ奥、夏の天の川の最深部(いて座の方向)には、太陽の四百万倍の質量を持つ天の川銀河の中心核・超大質量ブラックホール「いて座A*(エースター)」が鎮座している。さらにその手前、へびつかい座の暗がりには、現在知られている中で地球からもっとも近いブラックホール「Gaia BH1」が静かに潜む。

私たちは満月を見上げているようでいて、実はこの太陽系を抱きかかえる銀河の「心臓部」――すべてを束ねる漆黒の深淵と同じ方角を、まっすぐに見つめている。

古来、人間は天の川を「死者の魂が渡る川」と見なした。 肉体という器は、数十年の時を経てやがて土や水へと還っていく。けれど、四百年前の木曳堀に綱をかけた引き手たちの手のひらの痛みも、泥海を睨み据えて新田を拓いた政宗の眼光も、この川で竿を握り「これからですね」と笑った釣り人の熱気も、消え去るわけではない。

肉体を超えて、何かを感じ、何かを残そうとした意志そのものが、この土地の襞(ひだ)に染み込み、星空の下で確かに息づいている。

飛行機の小さな光が南の宙へ吸い込まれ、河口には再び、遠い波の音と静かな水音だけが残る。 川面を照らす月の光は、四百年前の木材の背を照らし、未来の誰かを照らす光と何ひとつ変わらない。

明日から、旧盆に入る。  カメラを手に、私はもう一度肉眼で 銀河の奥へと続く満ちゆく月を見上げた。

(東北ROUTE66 記録・測量録)

あわせて読みたい:【測量録】新地・鹿狼の山懐に湯を訪ねて

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