【俺の温泉同好会 vol.6】
その日は、曇天だった。
九月の半ばだというのに、肌に触れる空気がどこかひやりと薄ら寒い。
「こりゃ、温泉日和だな」
噂には聞いていた姥湯温泉へ、妻を助手席に乗せて向かうことにした。
車一台分の道
山道へ入ると、なるほど、噂どおりの悪路だった。
春先の山菜採りや秋のキノコ採りで、道なき道のような山には慣れっこになっているはずの自分でも、「おお……」と唸る。舗装されているだけまだ有難いとはいえ、そのアスファルトもあちこち崩落しかけていて、一般道としてはなかなかに危なっかしい。
道幅は、ほぼ車一台分。すぐ脇は深い崖だ。斜度もきつく、カーブの曲がりもえげつない。途中のヘアピンでは二箇所ほど、慎重に切り返しを入れてクリアした。

それでも、うちは四輪駆動だ。四駆で本当に良かったと思うと同時に、オフロード好きの血が騒いで、何気に道中が面白くなってくる。所々に案内看板が出ているし、この先にちゃんと目的地があると分かっているから、不安はない。もしこれが「どこへ連れて行かれるか分からない道」だったなら、相当心細かっただろう。
霧の中の赤い救急車
やがて、白い霧が行く手を遮るように湧いてきた。パラパラと、小雨も落ちてくる。
フォグランプを灯す。低く広がる光の中に、濡れそぼった木々と巨石の陰が浮かび上がり、ふと、この地に伝わる山姥伝説が頭をよぎった。
「おお、雰囲気あるねえ……山姥……」
ひたすら続く凸凹とカーブ、小刻みなアップダウン。
「……山姥、出そうだな(笑)」
などと軽口を叩いていたら、突如として前方のカーブから対向車が現れた。
――しかも、赤い救急車。
こちらの車を認めるやいなや、相手はウーウーと突然サイレンをけたたましく鳴らして、緊急性をアピールしてきた。
こっちは慌ててバックギアに入れ、崖っぷちに神経を尖らせながら二十メートルほど後退する。
妻が目を丸くして言った。
「なんで? 今まで音聞こえなかったよね?」
「まあ、誰もいない山の中だし、普段は鳴らす必要もないんだろうけどさ」
「でも、あれだね。ここに来る救急車は真っ赤な四駆なんだねぇ」
「まあ、あれじゃないと来れないだろうな、ここは」
「この先の温泉で、誰か倒れたんかね?」
「なんだろうねぇ……びっくりしたねぇ」
ひと息ついて、またひたすら険しい道を進む。
意外にも対向車はぽつりぽつりとやってくる。その都度、路肩の崖っぷちぎりぎりまでバックして道を譲る。ガードレールはない。己の車幅感覚をこれほど極限まで研ぎ澄ますシチュエーションが、他にあるだろうか。時には相手に譲ってもらいながら、どうにかこうにか、ドン詰まりの姥湯温泉の駐車場へとたどり着いた。
吊り橋の先、姥湯温泉へ
車を降り、そこからは歩きだ。

谷間に架けられた細い吊り橋を渡る。眼下の沢には、なんと言ったらいいか、温泉特有の青みを帯びた不思議な色の水がごうごうと流れている。そこから山道を約二百メートル、沢沿いに息を切らして登っていくと、ぷんと鼻を突く硫黄の匂いとともに、ようやく宿の姿が見えてきた。

姥湯温泉「桝形屋」。天文二年(一五三三)、この湯に浸かる山姥の姿を鉱山師が見つけたのが、名の由来と伝わる。

入り口で入浴料を払い、いざ湯へ。日帰りで入れるのは露天風呂だけで、男性専用の湯船はない。妻は女性専用の露天へ向かい、私は混浴の露天風呂へ。
すだれで囲われた湯船を覗くと、ラッキーなことに誰もいない。女性専用の露天のほうからは微かに話し声が聞こえてくるから、あちらには先客がいるようだ。
岩で組まれた湯船は、長年こびりついた硫黄の結晶で、言うなればひとつの作品のような迫力がある。
注がれる湯は、乳白色というよりはエメラルドグリーンに近い。天候によって見え方が変わるらしいが、この曇天と小雨の優しい光が、湯の色をしっとりと引き立てていて本当に綺麗だ。

すぐ脇を沢が流れ、その先には独特の荒々しい岩肌の山がそびえている。霧がふわあと立ち込めていて、なかなかの幻想世界を醸し出す。
「なんだ、曇天は曇天で雰囲気あるじゃないか。小雨交じり、最高だな」
一人きりでこの贅沢な湯を堪能していると、ふいに他のお客さんがやってきた。
「こんちは~」
声をかけてみたが、
「…………」
返事はない。
見れば、年配のご夫婦だった。足元もおぼつかず、湯船に入るだけで精一杯なのだろう。
(……おっと、そうだった。ここは混浴だったな)
お父さんが、お母さんの体を隠すように傘を差しかけながら、そろりそろりと湯に入ってくる。
(なんか……気を使うな……)
でも、その姿がなんだかひどく微笑ましい。
なるべくあちらの視界に入らないよう、そっと背を向けた。幸い、湯船の真ん中に岩の島があって意外と広いため、そこまで気まずい空気にならずに済んだ。
それにしても、この冷たい小雨と熱い温泉の組み合わせは実にいい。
湯加減はけっこう熱めなのだが、雨粒で冷やされた空気とのコントラストで、ちょうどよく感じられる。肌をなでると、入っているそばからツルツルと手触りが良くなっていくのがわかる。湯底を歩くと、ときおり足の裏に砂利が「ジャリッ」と当たる。この天然そのままの感触が、またたまらない。
ゆったりと湯を味わった。
「さて、あがるか」
湯船のへりの岩場に立つと、眼下に流れる沢と、雨に濡れる桝形屋の佇まいが一望できた。
サッと服を着替え、心地よい火照りを身体に残したまま、山を下りた。
峠駅、板谷峠の屋根の下
帰り道、奥羽本線の「峠駅」に寄り道をした。
車を降りて見上げた瞬間、度肝を抜かれた。駅を丸ごと、すっぽりと木造と鉄骨で囲い込んだ巨大な覆屋。年代物の板壁が連なり、まるで巨大な秘密基地のようだ。

こんな山奥に、こんな駅があるのか。かつては赤岩・板谷・峠・大沢と、四つの駅が続けてスイッチバックで峠を越えた。その仕掛けは一九九〇年、山形新幹線を通す工事で姿を消したという。いまは、新幹線と在来線が同じ線路を使って、ここを通過するという。
「ここが一番綺麗に抜けますから」
薄暗い覆いの中へ足を踏み入れ、ぼんやりと眺めていたら、カメラを提げた初老の男性が一人、ふらりと入ってきた。
声をかけてみると、もうすぐ電車が来るので撮影に来たのだという。しかも、上下線の新幹線と、在来線の普通列車が立て続けに来るらしい。
「へえ! それはラッキーだな」
たまたま立ち寄っただけなのに、なんという偶然だろう。
聞けばその男性、寒河江市からやってきた筋金入りの「撮り鉄」さんだった。胸ポケットには鉄道無線を聞くための受信機を忍ばせ、片耳にイヤホン。物腰がとても柔らかく親切な方で、「この明暗差だとF値はこのくらいがいいですよ」とカメラの設定を教えてくれたばかりか、「ここが一番綺麗に抜けますから」と、ご自分が陣取っていた一番いい立ち位置まで譲ってくださった。
じっとレールを見つめていると、男性の無線機から何やら交信音が漏れ聞こえる。
男性がイヤホンに指を添え、静かに言った。
「あぁ……まもなく来ますね。前の駅を出たところです」
遠くから重低音が響き、闇を切り裂くようにヘッドライトの光が差し込んできた。
次の瞬間、木造のスノーシェッドを揺るがしながら、新幹線が風を巻き上げて目の前を通過していく。
……アドバイスをあれこれ貰ったものの、結局、写真はうまく撮れなかった。ブレてしまった。

ファインダー越しに捉えきれなかったのは少しがっかりしたが、まあ、そんなものだろう。その迫力と風圧は、しっかりと肉眼の奥に焼き付けた。それで十分だ。
峠の茶屋の力雑煮そば
「さて、在来線が来るまで時間もあるし、そこの茶屋にでも行く?」
妻と顔を見合わせ、駅前にある「峠の茶屋」へ暖簾をくぐった。
店に入ると、お母さんと娘さんが元気に出迎えてくれた。
注文したのは「力雑煮そば」。
運ばれてきた丼を見て、驚いた。私の知っている力そばは、香ばしく焼いた餅が入っているものだった。ところが、ここの餅は違う。箸を沈めると、つきたての真っ白な餅がふんわりと柔らかく伸びる。
「へえ、焼いてない! つきたてだ」

出汁のしみたふわふわの餅を、うまいうまいと夢中で平らげた。
その間にも、ガラガラと扉が開いて三人組と、一人客が入ってくる。
一人客の男性が、息を切らしながら言った。
「次の電車に乗るので、早く出るやつをお願いします!」
「はーい!」
娘さんが威勢よく声を上げ、手際よく厨房を切り盛りしている。
その傍らで、お母さんが昔ながらの駅弁売りスタイルで、首から木箱を提げ、名物の「力餅」を抱えて駅のホームへ向かう準備を整えていた。

「よし、我々もそろそろ行くか」
熱い汁を飲み干し、代金を払ってそそくさと店を出た。
一歩遅かった
駅の覆いの下へ向かうと、そこには近隣の温泉旅館の送迎車が三台、並んで止まっていた。宿の人が、お客さんを案内している。
「……あれ? お客さん、今から送迎車に乗るってことは……」
「あらら! なんだ、もう電車行っちゃったじゃん~!」
一歩遅かった。
茶屋の出口で、つきたて餅の余韻に浸りながらもたもたしていたのが運の尽きだった。
「あいや~、見逃した! ざんね~ん!」
思わず妻と顔を見合わせて笑ってしまった。
けれど、こんな山奥の、薄暗い峠の駅だというのに、ホームからは思いのほかぞろぞろとお客さんが降りてくる。この時代に、この場所で、列車を降りて秘湯へ向かう人たちがこんなにもいるのかと、なんだか妙に感心してしまった。
「まあ、新幹線は見られたんだし。いいんじゃない?」
妻のその一言に、肩の力がふっと抜けた。
思い通りにいかないことも、時間の読み違えも、通り過ぎた電車の音も、ぜんぶひっくるめて、この日の旅だった。
すっかり冷えた風を胸いっぱいに吸い込んで、車のドアを開ける。
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文・写真:編集部 小林


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