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測量する赤湯 ── 雪の蕎麦屋、二人の井上、暮れゆく路地裏

暮れかけた赤湯の路地。軒先にやきとりの赤提灯が灯り、道の先に山並みが見える / 00_eyecatch_yakitori_chochin.jpg

【俺の温泉同好会 vol.5】

大晦日、除夜の鐘のあとで

ずいぶん前のことになるが、赤湯の蕎麦屋で聞いた話が、いまも耳の奥に残っている。

大晦日を赤湯で過ごし、家族や友人たちと新年を迎えるのが恒例の行事になっていた。温泉に入ってご馳走をいただき、テレビの紅白歌合戦から『ゆく年くる年』を見て除夜の鐘を聞き届けると、旅館の裏手にある八幡様へ元朝参りに出かける。雪をかき分け、冷え切った参道の階段を徒歩で登る。それが毎年の楽しみだった。

元朝参りの行列に並んで新年の挨拶を済ませ、おみくじを引き、篝火にあたって階段を下りてくる。その帰り足、細かい雪がちらつき始めた。

青い縁の丼に入ったチャーシュー麺。奥にガラスの引き戸 / 02_yabusoba_2017.jpg
▲ 2024年元日、午前0時すぎ。烏帽子山八幡宮

冷え切った身体の先に、今年も「やぶそば」の看板が灯っているのが見え、ほっと心が和む。

「年越しそば、いくか」

「いいねぇ、寄ろう」

「寒い寒い、早く入ろう」

引き戸をガラガラと開けると、恰幅のいいお母さん店主と娘さんが立ち働いていた。前の年と同じ、見慣れた顔ぶれだ。フードをかぶった私たちは雪まみれで、上着の雪を入り口で叩き落としながら暖簾をくぐった。石油ストーブの薬缶から湯気が上がっている。皆でそこに手をかざし、手をすり合わせた。

店内のテレビでは新年の挨拶が盛んに叫ばれている。年季の入った壁掛け、すり減った畳の小上がりのへりに、お店の大女将であろうおばあちゃんがちょこんと腰掛けて談笑していた。

カウンターの上の下がり壁には献立の札が並んでいる。食い意地の張っている私はカツ丼とだいぶ迷ったが、腹の都合から天ぷらそばにした。他の面々も天ぷらそば、ラーメン、かけそば、ビールと、散々飲み食いしたはずなのにそれぞれ好き好きに頼む。

青い縁の丼に入ったチャーシュー麺。奥にガラスの引き戸 / 02_yabusoba_2017.jpg
▲ 2017年元日、午前1時すぎ。やぶそばの卓で

サービスで出してくれた漬物をつまみ、「おめでとう」と乾杯して丼をすすっていると、小上がりのへりのおばあちゃんが声をかけてきた。

「お客さん、元朝参りかい」

「はい、そうです。そこの大文字屋さんに泊まっていて。お母さん、この店はもう長いの?」

八十歳ほどに見えたその人は、穏やかに言った。

「長いねぇ。私はもう、百歳になったんだよ」

「えぇ、百歳!? お母さん凄いね、百歳の看板娘だ」と一同が感嘆すると、おばあちゃんは目を細めて遠くを見つめた。

「この温泉街も昔はずいぶん流行ったんでしょう」

「そりゃあ流行ったなんてもんじゃないよ。どこからも三味線の音が聞こえてねぇ。旅館じゃ連日宴会だもの。どこも大繁盛だよ。綺麗な芸妓さんもいっぱい居たんだよぉ」

そして、こう続けた。

「月に一回、診療所の検査の日があるんだよ。そうすると診療所の前に芸者さんが行列して並ぶんだ」

「なんで?」

「性病検査だよぉ。今じゃ随分と廃れちゃったけどねぇ、そういう町だったなぁ」

生々しい歴史の断片だった。そういう時代を生きてきた人の口からしか出ない、飾りのない町の記憶。ほのぼのとした蕎麦屋の空気の奥に、かつてこの町が背負っていた熱気と影が、一瞬だけ姿を現した気がした。

残りのそばを平らげ、勘定を済ませて出口に立つ。「お母さん元気でね、また来るよ」「面白い話を聞かせてもらった、ご馳走様」と声をかけて店を出た。

偶然ながら、街の歴史を知る生き証人に出会って貴重な話を聞いてしまった。思わぬお年玉をいただいた気分だった。震災前から十数年、この地に足を運んでいたが、そうした町の過去に深く触れる機会はなかった。昔の温泉地にはどこにでもある話だろうと、その時は深く掘り下げることもなく、ただ百歳の看板娘に会えた幸運だけを胸に宿へ戻ったのだった。

『色街アワー』と繋がった点

それから年月が経った今年、ネットで本を物色していて、ふとある一冊に行き当たった。

渡辺大輔『色街アワー 赤湯温泉群像歌』(スコップ出版)。

帯には「芸者にだけは絶対なるな」とある。

「んん? なんだこりゃ……あの街の小説か」

即座に買い求め、頁を繰った。

あの雪の夜、やぶそばのばあちゃんが語った言葉が、一気に蘇ってきた。

「これか……」

原作となったのは、赤湯で生まれ育った角田弘子さんの随想集『遠花火』だという。戦後のどさくさの中、戦争で父を亡くし、半盲の母とともに歓楽街の片隅で懸命に生きた一人の少女の目に映った、生々しい人間模様と街の暮らしが描かれていた。

読み進めると、赤湯の繁栄は江戸の昔にさかのぼるという。あまりに風紀が乱れているとお上の指導が入り、一度は鎮まったものの、明治期に再び色街が息を吹き返し、遊郭まで出来上がった。明治十一年(1878)にこの地を通った英国の女性旅行家イザベラ・バードが、置賜の平野を「東洋のアルカディア(桃源郷)」と称えながら、赤湯では宿の混み合いと賑わいにこれでは眠れないと泊まるのをあきらめ、上山まで足を延ばしたという記録も残る。

この本を読んだことで、十数年通い続けてきた赤湯の風景が、まったく別の像を結び始めた。私の中で、すべての点と線がカチリと音を立てて繋がったのだ。

なぜ赤湯の路地裏には、これほど複雑に折れ曲がる小道が多いのか。なぜ地方の小さな温泉街でありながら、小料理屋や居酒屋、中華、焼肉、そして無数のスナックが密集しているのか。なぜ歩いて行ける範囲に、幾つもの小さな共同浴場が残っているのか。(温泉好きの私は、昔それらをすべて巡ろうとして三軒目で湯あたりし、ギブアップしたことがあった)。

レトロな小道を歩くたびに感じていたあの独特の稠密さは、かつてこの町が東北有数の花街・歓楽街として膨らみ、多くの人が身を寄せ合って生きてきた時代の名残だったのではないか。本を閉じたあと、私にはそう思えてならなかった。

大文字屋の帳場、二人の「井上」

見え方の変わった赤湯の「いま」を確かめてみようと、私は再び宿を予約した。

泊まり先は、いつもの定宿「旅館 大文字屋」だ。

「はいはい、大・文・字・屋・です」

「はいはい、角田の五郎さん、いつもどうも」

受話器の向こうのやり取りはいつも通りだ。湯町通りの中心に立つ風格ある佇まい。高齢になられたが通い始めた頃から変わらないご主人と女将さん、そして番頭さん。過剰なサービスはないが、揺るぎない安心感がある。昭和初期に建てられた木造三階建ての旧館は中央に中庭を抱くロの字の構造で、玄関ロビーから庭と木造建築の重なりが見渡せる。

私がこの宿を選ぶ大きなきっかけになったのは、伊能忠敬が測量の途次に泊まり、明治以降は新渡戸稲造が定宿にしたという歴史だった。立川志の輔原作の映画『大河への道』を観て忠敬隊の偉業に深く感銘を受けていたこともあり、あの伊能忠敬がこの宿に泊まり、同じ空気を吸っていたという話にロマンを感じていたのだ。

帳場で番頭さんと顔を合わせる。

「番頭さんも変わらないねぇ。もう長いですよね」

「へぇ、長いですね。いつもありがとうございます」

ふとロビーの壁に目をやると、アメリカの人気パフォーマンス集団「blast!(ブラスト!)」のメンバーサイン入りシンバルヘッドが飾られているのが見えた。南陽市での公演の際、一行がここに宿泊していたのだという。忠敬から新渡戸稲造、そして海の向こうのエンターテイナーまで、旅人がこの帳場を通り抜けていった足跡だ。

「ところで、今この宿の看板になっている忠敬や新渡戸稲造の宿泊記録ですけど、宿の台帳に残っていたりしたんですか?」

私が尋ねると、番頭さんはこともなげに答えた。

「それが、当時の台帳はないんですよ。実は、この街の隣町出身の作家、井上靖さんが調べて教えてくれたんです」

「えー! あの井上靖さんが!?」

「はい、そうなんです」

私は二度確かめた。あの井上靖? 小説『敦煌』の!? 十一世紀の西域、シルクロードの莫高窟に命がけで膨大な書物を隠し、文化を守ろうとした青年の壮大な物語。幾度となく映画も観たあの超大作の生みの親が、隣町出身で、忠敬の足取りを掘り起こして旅館に知らせてくれたのか。なんと深みのある宿なのだろうと、その時は鳥肌が立つほど感嘆したのだった。

――ところが、である。

妙な引っかかりを覚え、あとになって調べてみると、井上靖の生まれは北海道旭川で、育ちは静岡・伊豆の湯ヶ島。山形の出身ではない。

ここ置賜、赤湯のすぐ隣にある川西町(旧小松町)で生まれた高名な作家といえば――そう、「井上ひさし」だ。しかもひさしには、伊能忠敬を主人公にした長編小説『四千万歩の男』がある。

番頭さんの話の主は、「やすし」ではなく「ひさし」だったのではないか。

あの時、私は大真面目に「あの井上靖さんが!?」と聞き返し、番頭さんも「はい、そうなんです」と大真面目に頷いていた。二人とも気づかぬまま、頷き合っていたことになる。帳場で交わされた、なんとも愉快な思い違いである。

だが、勘違いらしいと分かって熱が冷めるどころか、可笑しさが込み上げてきた。

井上ひさしもまた、私が大好きな作家だ。『吉里吉里人』や『ひょっこりひょうたん島』の軽妙さ、そして彼が遺した有名な言葉がある。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

伊能忠敬の足跡をたどり、帳場で敦煌のロマンに胸を震わせ、後からひさしの言葉を思い出してクスリと笑う。二人の「井上」の影が重なり合って、旅の記憶の味わいがぐんと深くなった。

荷物を置き、浴場へ降りる。

帳場に掲げられた由来書きによれば、昔は外湯が基本だった赤湯で、ある冬の日、当主が中庭で冬眠せずにいた一匹の蛙を見つけ、調べてみたところ温泉が湧き出てきたという。明治二十六年、宿は「冬蛙亭大文字屋」と称し、赤湯で最初の内湯旅館となった。玄関先には今も小さな蛙の石像が据えられている。

蛙の絵とともに、宿の名の由来を記した手書きの額 / 03_fuyukaeru_tei_yuraigaki.jpg
▲ 帳場に置かれた「冬蛙亭大文字屋 名の由来」

引き戸を開けると、湯舟の壁一面、天井まで、葡萄の房と葉をかたどった見事な石のレリーフが組まれている。赤湯がワインと葡萄の産地であることを静かに物語る意匠だ。

石の湯口からは、白い湯花をゆらゆらとまとった源泉が滔々と流れ出ている。

丸い石の玉と板石の葉で組まれた葡萄のレリーフ。その下の湯口から源泉が流れ落ちる / 04_budou_relief_yuguchi.jpg
▲ 壁一面の石の葡萄と、湯口

先客が一人いたが、挨拶を交わすと間もなく上がっていった。

静かになった湯舟に沈み、窓の外の中庭を眺める。池には錦鯉が悠々と泳ぎ、苔むした灯籠がしっとりと佇んでいる。熱い湯に身を委ねながら、この地に立った先人たちの歩みに思いを馳せた。

木造の客室に囲まれた中庭。池に錦鯉が泳ぎ、灯籠が灯る / 05_nakaniwa_nishikigoi.jpg
▲ 中庭。池の錦鯉と、灯籠の明かり

暮れゆく路地、日常の体温

日も傾いてきたので、夕方の赤湯の散策に出た。

以前に歩いたのはコロナ前だっただろうか。しばらくぶりの路地裏は、以前とどこか様相が異なっていた。

閉まってしまった店が目につく。早い時間だからというだけではない。「テナント募集」や「閉店」の貼り紙が点々と残り、かつて昭和の夜を彩ったであろうグランドサロンのネオン看板も、錆をまとったまま静かに沈黙していた。

「あれ、ここもやめちゃったのか」

「あらぁ……ここもやってない」

かつて栄華を誇った歓楽街にも、確実に時代の影が落ちている。

黄色いネオン看板と電球の縁取りが残る、シャッターの閉じた店 / 06_shimatta_neon.jpg
▲ シャッターの下りたサロン。「今夜は楽しくゆかいに」の文字が残る

だが、街の中心へ歩みを進めると、夕暮れの街に明かりが灯り始めていた。

通りの角にある「立呑 祭や」の赤暖簾が目に入る。軒先に連なる赤提灯の下、ガラス越しに見える店内からは、早い時間から杯を交わす人々の気配と談笑が外へ滲み出していた。

そこから少し歩くと、街なかにひっそりと整備された公園と「あっこポッポ湯」という足湯の東屋がある。飲泉所の前で、大きなペットボトルを両手に提げた近所のおじさんとすれ違った。

「このお湯はね、体にいいから飲んでみな」

勧められて口に含むと、温かい温泉水の微かな硫黄の香りと塩気が舌に残った。

両手にペットボトルを提げ、通りを渡っていく人の後ろ姿 / 07_petbottle_onsensui.jpg
▲ 汲んだ温泉水を提げて

すぐ隣の児童公園の藤棚を見やると、緑の屋根の下のベンチに中学生くらいの女の子が二人並んで腰掛け、暮れゆく空の下で静かに言葉を交わしていた。

さらに足を伸ばし、街のはずれへと歩いていく。

薄暗くなった通りの角に、小さなプレハブの小屋がぽっかりと暖かな光を放っていた。赤提灯に染め抜かれた「やきとり」の文字。「とり福」だ。

仕込みの煙が漂う窓口に寄り、焼鳥を数本焼いてもらう。焼き上がりを受け取り、妻と二人で温かい串を分け合って食べた。じんわりと肉の旨みが口に広がる。

夜の駐車場の角に、赤提灯を灯したやきとりの小屋 / 08_torifuku_yakitori.jpg
▲ とり福の窓口

華やかだった花街の記憶、静かにシャッターを下ろした店、赤提灯の下で笑う人々、夕暮れの藤棚、そして日課のように汲まれるペットボトルの温泉水。

歩き終えて、私の目に赤湯の町は、過去の遺物にも、観光のための書き割りにも見えなかった。

栄華も衰退も、日々の生活の温もりも、すべてが同じ地層の上で、いまも静かに呼吸を続けている。私にはそう感じられた。

風がいよいよ冷たくなってきた。

私たちは首をすくめ、あの蛙の待つ大文字屋の玄関へと、ゆっくり足を向けた。

文・写真:東北ROUTE66 取材班 五郎左衛門

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