――進駐軍の記憶から老舗の止まり木まで
仙台の飲食史を語るなら、ここは外せない。
約三千軒が犇めく東北一の歓楽街、国分町。眠らない街だ。
遠い昔、ずいぶん羽目を外した記憶が幾度もある。
♪ちょいと一杯のつもりで飲んで いつの間にやら梯子酒♪
昭和の高度成長期を象徴するコミックバンド、
クレージーキャッツ。
あの軽やかな歌声が世に流れた頃、日本は前へ前へと進んでいた。
東北の酒飲みにとって国分町は、単なる盛り場ではない。
どこか感慨を呼び起こす場所である。
宿場町から「国ブラ」へ
国分町の歴史は古い。江戸期、奥州街道の拠点として整備され、旅籠や商店が軒を連ねる宿場町だった。
歓楽街としての色を帯び始めたのは明治以降。仙台城跡に旧日本陸軍第二師団が置かれ、軍関係者の往来が増え、飲食店や遊興施設が集まり始めた。
大正十五年、市電が開通。人の流れは一気に加速する。昭和初期には“国ブラ”という言葉が生まれるほど、洗練されたモダンな街となった。
蓄音機からジャズが流れ、学生や文化人が行き交う。
国分町は時代の空気を吸い込みながら形を変えていった。
焦土、そして1ドルの威力

一九四五年七月十日未明、仙台は空襲に遭う。
千人を超える命が失われ、市街地の広い範囲が焼き尽くされた。
一夜にして街は焦土となる。
終戦後、国分町は再び転換点を迎える。GHQの進駐である。
米兵たちが街へ繰り出し、焼け野原にドルが落ちた。
「ギブ・ミー・チョコレート!」
戦後の原風景だ。
この時代に刻まれた記憶が、今の国分町の骨格を形づくっている。
現代の国分町をゆく

――至高の梯子酒
歴史を背負った街を、今夜は歩く。
一番町の角、菅原酒店が営むPUB THE SWAN。
角打ちでギネスを一杯。
紫煙の向こうで泡が立つ。
五臓六腑に染み渡る一口。
まだ夕暮れ前だというのに、夜はすでに始まっている。
黄昏の国分町。

「焼とり くろ田」。
赤い割烹着の女将、煤けた壁、湯気の向こうの徳利。

熱燗。焼鳥。もつ煮込み。
「俺、吉田類さんじゃないんだよ」
「太田和彦さんなんだよ」
「俺もだよ!」
徳利が一本、また一本。
言葉は丸くなり、声はやわらぐ。
そろそろ頃合いだ。
名残を置くように席を立つ。
灯りの中へ戻る。長居をしないのも粋というものだ。

旧暦の元旦。
餃子と紹興酒。
店名は思い出せない。
だが、また来る。
それでいい。
♪ちょいと一杯のつもりで――
あの旋律が、また背中を押す。
昭和五十年代後半創業「マゼランの冒険」。
ここには書けない話もある。
国分町は、記憶を静かに醸す街だ。

生き字引が語る昭和二十四年
「酒場 門」
最後に辿り着いたのは「酒場 門」。
創業は昭和二十四年。
昭和二十四年といえば、お袋と同い年だ。
そう思うと、この店の時間が急に近しくなる。

七十八歳のマスターが穏やかに語る。
「ここから仙台駅が見えたんですよ」
「クリスマスになりますとね、米兵さんが七面鳥やアイスクリームを持ってきましてね。冷蔵庫がありませんから、近所の子どもたちと分けて食べたんです」

やがて高度成長期。
「地上げ屋が毎日のように来ましてね、“二億円でどうだ”と言うんです」
それでも売らなかった。
「やはり、この場所で続けるのが一番だと思いましてね」
人と時代が交差する“門”である。
店を出る。
かつて千人を超える命を失った街だ。
それでも国分町は、幾度も立ち上がってきた。
時代の風向きは、また少し変わった。
駅前の灯りは強くなり、人の流れもゆるやかに移る。
合理化、経済の波、若い世代の酒との距離。
理由はいくつもあるのだろう。
以前ほど肩が触れ合う夜ではない。
それでも、灯りは消えていない。
そして――
世界も、どこかきな臭い。
遠い話のようでいて、歴史は突然足元に落ちてくる。
だからこそ、もう破壊の文化はいらない。
英知で踏みとどまれないものか。
そう考えながら、宿で眠りについた。
夜は終わらない。
形を変えて、また巡ってくる。












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