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今日という一日が残った理由

子供のころから無鉄砲で、早とちりのおっちょこちょい。勢いだけは人一倍あるが、あと先を考えぬものだから、損ばかりしてきた――私は長いこと、自分をそういう人間だと思い込んでいた。
「いやー、昨日は大変でしたよ」
今朝、スタッフがそう言って溜息をついた。
聞けば、昨夜の帰り道で財布を落とし、夜通し探し回ったという。
「何だよ、それ。言ってくれりゃ一緒に探したのに」
私は思わず声を荒らげた。
「で、どうした。見つかったのか?」
すると彼は、朝方警察署に行ったら、もう届いていたと言う。
中身もそのままだと、少し照れた顔で笑った。
私は胸の奥が、すっと緩むのを感じた。心配がほどけたあとに、妙に静かなものが残った。
――そういえば、である。
東京駅で財布を落としたことがあった。羽田空港で鞄を置き忘れたこともある。山手線の車内、自社前の路上、角田駅前でも、私は同じように慌てふためいた。
そのたびに己の不注意を呪い、「今度こそ駄目だ」と腹をくくったものだ。
ところが、どうだ。
……!
ことごとく、戻ってきている。
一円も欠けず、何事もなかったように。
私はそこで、ふと別のことに思い当たった。
これは物の話だけではない。
振り返れば、私の人生にも、もう駄目だと思った場面が幾つもあった。行き止まりに立たされ、逃げ場もなく、己の無鉄砲さを恨んだ夜もある。
それでも不思議なことに、決定的なところでは、必ず踏み外さずに済んできた。
誰かが声をかけてくれたことも、手を貸してくれたことも、無くはない。
ただ、そのときは気にも留めず、通り過ぎてきただけなのだ。
あとになって振り返ると、危ういところに必ず柵があり、落ちる前に足が止まっていたことだけが、はっきり思い出される。
いつもそうだ。
人生の肝心な場面で、私は知らぬ間に支えられていたらしい。
私は今さらのように立ち止まった。
損ばかりしてきたと思っていたが、どうも勘定が合わない。
これは不運続きの話ではない。むしろ、幸福の真ん中に立っていたという話ではないか。
「有難い」
口にすると、その言葉がずしりと胸に落ち、腑に落ちた。正しく、有難いのである。
同時に、私はこの国の人の気質というものを、心底誇らしく思った。名も知らぬ誰かが、当たり前の顔で拾い、黙って正しい場所へ戻してくれる。
その静かな心根が、私の歩いてきた道のあちこちに、確かに置かれていたのだ。
だが、ふと考える。こうした当たり前の心遣いも、これからずっと続くものだろうか。時に変わりゆく世の気配の中で、私たちの国の道徳や思いやりの心が、揺らぎはしないだろうかと、静かに懸念する気持ちが湧いた。
そして、先日誕生日を迎え、歳を重ねた身として、こうした経験のひとつひとつの価値が、改めて腑に落ちる思いで胸に沁みた。
年を取るということは、小さな奇跡や支えに気づき、そのありがたさをそっと味わえることなのだろう。
私はしばらく、静かにその場に立ち尽くした――
ただそれだけで、今日という一日は、十分に心に残った。

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