
飲食店にとって、水は命である。
いや、飲食店に限らず、人の営みすべては水の上に成り立っていると言ってもよい。
「水商売」という言葉がある。軽やかに聞こえるが、その実、我々の生業がいかに水に依存しているかを、如実に物語る言葉でもある。鍋を洗うにも、米を炊くにも、出汁を引くにも、水がいる。水が止まれば、火も包丁も、ただの置物になる。
数年前、我が宮城県は全国に先駆けて水道事業の民営化――いわゆる「みやぎ型管理運営方式」へと舵を切った。
大きな時代の潮流と言えば、それまでである。
その余波は、静かに、しかし確実に、この角田の町へも及んだ。老朽化した設備、人口減少、収支の逼迫。数字は冷静に現実を告げる。そして、水道料金の大幅な値上げ案が議会に上程された。
当時、議会はこれを退けた。
市民の暮らしを守るという立場からである。
県内でもいち早く、ここ角田で「水の公共性」を巡る議論が起きたことは、決して偶然ではあるまい。水は蛇口の向こうに隠れているがゆえに、普段は意識されない。しかし、いざ揺らぐとなれば、人は初めてそれが命の底を支えていたことに気づく。
無論、現場の苦労を知らぬわけではない。
施設は老い、人口は減り、収益は細る。持続可能性という言葉は、決して空虚ではない。
だが、それでもなお、私は思う。
水は利益を生むための装置ではなく、命を繋ぐための基盤である。
国や行政の本来の務めとは何か。
それは、国民の命と財産、そして国土を守り抜くことではないのか。
私は、水道をはじめとする公共インフラは、ある種の「国防」に等しいと考えている。武器を持たずとも、人は水を失えば生きられぬ。生命線を、採算や効率の論理に全面的に委ねてよいはずがない。
企業は利益が出なければ存続できない。
その理は、三十余年、飲食の世界で生きてきた私が最もよく知っている。赤字は理想では埋まらない。
しかし、命を守る事業にまで、「利益」という物差しをそのまま当ててよいのだろうか。
「赤字だからやめる」
「利益が出ないから質を落とす」
そうした論理が、水という命の源にまで及ぶ未来を、私は静かに恐れている。民営化は慎重であるべきだ。いや、少なくとも、拙速であってはならない。
水は、地域に生きるすべての人が負担し、分かち合い、守り続けるべき公共の財産である。
この角田の地で、食を通して命を繋ぐ一人として、私は蛇口から流れる透明な水を見つめるたびに思う。
この無色の液体の中には、数字では測れぬ重みがある。
その重みを、ただの損益計算で量ってしまうことの危うさを、私は今日も、静かに、しかし確かに、胸の奥で噛みしめている。
